梅棹忠夫の京大式カードとニクラス・ルーマンのツェッテルカステン

「知の巨人」と呼ぶにふさわしい2人の学者が、それぞれ独自の情報整理術を編み出した。現代において紙のカードはそぐわないと言うなかれ、思考を巡らせるために適したツールとして、それら整理術はいまだに役に立つ。

※第7版 増補としてnote上で『情報カード思考(整理)術:梅棹忠夫の京大式カードとニクラス・ルーマンのツェッテルカステン 』と題した連載を始めました。

思考を巡らせるツールとしての、カード思考(整理)術

分野は違えど学者である梅棹忠夫とニクラス・ルーマンは、多数の書籍と論文を残した。また、それぞれが膨大なカードを作り、ともに研究の対象にもなっている。

その整理術には思想的に共通している部分があり、相違点には着目すべき要所を含む。

それらを紐解きつつ、みずからもカードを蓄積し、整理していく中で見えてきたのは、収納(保存・管理)とはまったく別の、思考を巡らせるためのツールとしての側面である。

梅棹は著書『知的生産の技術』(岩波新書, 1969, 227p.)において、「いちばん重要なことは、組みかえ作業である。知識と知識とを、いろいろに組みかえてみる。」(p.57)と述べており、これまでの経験からも、何度も繰り返すうちに突飛な(されど馬鹿にできない)案が見つかるという点において、紙のカードが断然すぐれている

(書き留めねば綺麗さっぱりと消え去ってしまう)頭に浮かんだ思考を言語化し、次々に公開していくさまは、それら文書の質と量を前に同僚がいぶかるほどだったが、カードの扱いに慣れて要領がわかってくると比較的に容易である。

それもそのはずで、ルーマンの整理術は、文書をいくらでも生み出す玉手箱のような「思考術」と換言してもいいだろう。

独自に構築した情報カード思考術は、「ツェッテルカステンをコアに、それを京大式カードが内包するハイブリッド」を形成するに至る。

これを使えば、考えを整理しながらまとめていく手助けをしてくれるうえに、その一連の作業を通じて文書化する際の構成まで浮かび上がらせる。

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デジタル:パソコン・タブレット・スマホなどのローカル上で使うアプリケーション、インターネットを介して利用するクラウドなどのWebサービスやツール類の総称として使う。

以下、本稿のリンク(言葉の定義や参考文献など)はサイト内の別ページに遷移するようになっており、そこにあるリンクより先は外部である。

はじめに:梅棹が考えたB6判カードの本質から、デジタル版のカード思考(整理)術を構築する

梅棹は『知的生産の技術』で「京大式カード」を紹介する際に、カード1枚につき、ひとつのアイデアとすることと、1枚で完結する文章に仕立てることを強調している。

また、見出しと自分の言葉で書いた文章で構成する旨を記し、「豆論文」と呼称した。

これについては、ルーマンも主旨としては同様である。

一方で、梅棹は「分類してはいけない」としているのに対し、ルーマンは「必ずカード同士をリンクで結び、孤立させない」ことを常とした。

京大式カードは、バラバラであるがゆえ自由に組み合わせることができ、(ときに衝突でもあるだろうが)新しい視点や課題の発見につながる。これが特質であろう。

単語と単語の単なる組み合わせでは必ずしもそうならず、やはり豆論文であるからこそだというのは、実際にやってみるとよくわかる。

梅棹による「京大式カード」の総数は定かではないが、ルーマンによる「Zettelkasten ツェッテルカステン」は90,000あまりであることがわかっており、木製のカードボックスに納められた現物をめぐって、死後に実子の間で相続争いにまで発展した。

そして、誰しもが関心をいだくのは、「これらカードを使って、どうやって文書を作っていたのか」だろう。

梅棹の著作は多く、「著作目録還暦版」には約40年間の書籍や論文、寄稿が2,200と記されており、その後も言論は続くのでさらに積み上がる。

また、ルーマンは書籍70冊以上、論文400あまりだという。

「第二の脳」と「思考プロセスの記録」

カードを作成するうえにおいていえることは、惰性であれば何のために続けているのかと思いあたり、それをきっかけにやめてしまいかねない。

(それがたとえ個人ブログの記事であっても)文書を作成するためだとしたら、武器になりえる。

生産性コンサルタントのティアゴ・フォーテは、著書『SECOND BRAIN(セカンドブレイン)時間に追われない「知的生産術」』において「第二の脳」という概念を挙げている。

過度な情報の蓄積で本来の役目を果たせず混乱しているので、それら情報をデジタル技術を利用して外部に溜め込むようにし、自身の脳を解放せよと説く。

また、ノートアプリ「Evernote」も同様の意味合いで公式サイトの日本語版において第二の脳という言葉を使っている。

これを梅棹とルーマンは、紙のカードとケースを使って構築していた。

ただし、それは単に情報のサイロ(貯蔵庫)としてではなく、2人にとっては「思考プロセスの記録」であったと思われる。

論点が見つかることで、アウトプットの質が上がり、量も増える

梅棹とルーマンは20世紀の後半に精力的に活動した学者であり、時代背景としてはデジタルの足音が聞こえてきたあたりということになる。

したがって、現状のような情報環境下では古いとされて当然であっても、同じような目的(再現しようとしている事例もある)のために作られたデジタルのツールやサービスと比べ、すぐれている点がある。

B6判というサイズが大きくもなければ小さくもなく絶妙で、考えを巡らせるのに適している。

曖昧ではあるがこの点は非常に重要で、カードを使って思考していく過程において、ふわっと浮かんでくる何かが論点に昇華し、これによってアウトプットが促される。

こういった頭の中で行われていることを随時とらえて言語化(思考プロセスの記録)し、それを繰り返すなかで質を伴って量が増えていく。

カード思考術の構築に挫折しないために

京大式カードは、「発想・着想」や「新たな視点・論点」といったものを生み出すためのカード思考術といえるだろう。

ただ、カードの数が少ないときにはまったく発見がなく、何も得られないまま、これまで何度か途中で投げ出している。

(ある程度の枚数を揃えて)使い物になるまでに「長い助走」が必要で、その間は目に見える成果物や実感としての手応えがなく、息切れしてしまうのだ。

よって相談されれば、こう答えている。

手始めはアウトプットとしての「文書」という成果物を手にすることを優先し、そのかたわら「京大式カード」の構築を並行して進めていく。

文書化のおりにルーマンが考案したツェッテルカステンが役立ち、しだいに京大式カードから引き出して文書を作成するというサイクルに入る。

このサイクルが回りはじめてからというもの、「止めどないアウトプット」が可能になった。

メモ:アウトプットとして文書を生み出す鍵が「メモ」である

独自のカード思考術は、手探りで構築していくうちに「ツェッテルカステンをコアに、それを京大式カードが内包するハイブリッド」を形成するようになった。

それぞれに組み込まれたカードは、内容としての性質はまったく別物である一方で、型としてはどちらも梅棹の豆論文にならい「一行サマリーと文章」で構成している。

「豆論文にはかならず「みだし」をつける。カードの上欄にそれをかいておけば、検索に便利である。「みだし」は、豆論文の標題でもいいが、むしろその内容の一行サマリーといったもののほうが、いっそうその目的にかなっているだろう。」(知的生産の技術, p.55)

ルーマンのカードを見ていくと、梅棹と同様に考えていたのではないかと思われる節がある。

一連の工程において、文書の作成以外の時間は「メモから豆論文を作り、それをどこに組み込むか」に費やしている。

なお、メモの一部が「短いが意味・意義をもつ文章」になることもあるので、これを「豆文」と呼ぶ。

思考の断片を書き留める

思考は、なにも読書や情報収集時だけではなく、通勤・通学や散歩、浴室やトイレ内ほか、日常のあらゆるシーンでふわっと浮かんできては消えるを繰り返している。

まずこれらを「メモ」として残すのだが、キーワードだけを書きつけた場合、数日もすればきれいさっぱり忘れてしまうのは必定で、その日のことさえあやしい。

断片を書き留めようとメモに真剣に向き合うようになると、なぜ世の中にメモやノート術に関する書籍やツール類が(アナログ・デジタル問わず)多種多様にあふれるほどあるのか、その理由がわかってくる。

それを使う場所や場面、使い始めばかりなのか熟練者なのか、メモやノートにしたあとの使い道(覚え書きのためなのか、さらに発展させることが目的なのか)ほか、そのときどきで必要なものが違い、また相性といったこともあるだろう。

音声や動画を視聴しながらのメモではコーネル式ノート術におおいに助けられ、レーニンのノート術を知ってから豆論文の質が明らかに変わった。

また、Helpfeel Cosense(旧Scrapbox)の愛用者が「情報整理(または共有)ツールではない」という理由も、使っていくうちにだんだんわかってきた。

豆論文と文献リスト

独自のカード思考術は文書化を目的に構築しているため、常に(それほど遠くなく文書化することになる)テーマを念頭に情報収集や資料の読み込みを行っている。

メモから昇華(思考を言語化)した豆論文は、内容の性質によって「ツェッテルカステン」もしくは「京大式カード」に組み込む。

ツェッテルカステンは、思考を体系化させ、それが文書化の手がかりとなるので、こちらに組み込む豆論文は「文書の元種」の様相になる。

一方の京大式カードは、ツェッテルカステンに補佐的に働く「事典」であり、その豆論文は何度も参照するであろう内容になっている。

その違いは「文献リストとの関係性」にも表れる。

ツェッテルカステンの豆論文には、そのもとになった(いわば内的な)文献を記してあるのに対して、京大式カードには内容を補完もしくは発展させるための(外部への足がかりとなる)文献を付す。

もし引用が必要なのであれば、(誤って剽窃とならないように)豆論文には含めず、引用文を記載した文献リストを用意する。

すでに豆論文が10,000超となり、さらには書き言葉であることから1ヶ月もすれば他人の言葉との区別がつかず、改めて調べ直さなければないような手間を回避し、よもやの事故を未然に防ぐための対策でもある。

B6カードと最小ブロック

個人ブログなどの記事を書いているうちに「文字数1,500〜2,000がもっとも書きやすい」と気づき、これを「最小ブロック」と決めたことで執筆が自在になった。

現在では、論考や寄稿文、短編、さらには書籍ほどの文字数が必要となる報告書でも基本の単位としている。

そして、執筆に不可欠なのが「紙のB6カード」で、最小ブロックに1枚を割り当て、報告書であれば100枚ほど用意することになる。

メモを取る際には常に「文書化」が念頭にあり、豆論文をツェッテルカステンのどこに組み込むのかを考えている。

この豆論文が最小ブロックの要旨になることから、(デジタル上に保存すると同時に)B6カードも作成し、小見出し用の「豆文」に、添付する写真や図表といった「素材」、裏面には注意事項などの「補足情報」も書き込んでいく。

これらのすべてが「メモ」から生まれてくる。

また、なぜ「紙のB6カード」なのかについては、次項の「カード思考術」ならびに「考察」にて後述する。

カード思考術:思考を体系化(ツェッテルカステン)し、文書の作成に並行して京大式カードを構築

ツェッテルカステンは、カードを作るたびに、すでにあるカードにリンクさせるという原則があるため、みずからの考えの筋に従う、すなわち筋が通った状態で保管されていくので、その流れのまま文書化しても読み物として成立する。

(「はじめに」の最後で)「京大式カードの構築には時間がかかり失敗することがある」と書いたが、この懸念は同様に当てはまるものの、テーマを絞って小さく作り始めればおそらく問題にはならない。

本項では、前半で「ツェッテルカステンによる体系化と文書化」の工程を、後半で「豆論文を作りつつ、京大式カードを構築」する手順を述べる。

構築の初期では別々であったが、ツェッテルカステンと京大式カードは不可分で、(一体として)「第二の脳」となっている。

なお、基本的な姿勢として、文書化せずに公開しない

ツェッテルカステン:カードをつないでいくことで思考が体系化される

実際にやってみないとわからないこととして、初期のころは思考の体系化は実感できない。

それでも文書を作成することを目的に進めれば、成果物を手にすることはできるはずである。

そのまま続けていくことでだんだん複雑になっていき、「あみだくじのようだな」と思えたら、おそらくうまくいっている。

サイズは小さくとも、いったん構築できれば、ルーマンが語った「ツェッテルカステンとの対話」が実現するだろう。

自身にとっての「第二の脳」が形成され始めたと実感できるタイミングである。

ツェッテルカステン:「断章」として文書化する

連なった形で保存されているなかに、「要所・要点」といったカードが何枚か含まれている。

最終的には組み込んで文書化することになるのだが、それを先出しすることがよくある。

前提や定義などの説明が必要になるため序文を用意し、先述した「B6カード」を使って「最小ブロック」で執筆したうえで文末には結びも添える。

いわば「断章として文書化」することで、ときに思ってもみない反応が返ってくることがあり、大げさにいえば「発見」だった。

要所・要点であることは認識していても、違った視点での意見が寄せられることによって思考に弾みがつく。

その場合には新たにカードを作成し、ツェッテルカステンに組み込むことで独自のカード思考術が「ふくらみ」をもつ。

ツェッテルカステン:ブログでも代用できる

これもまさに「発見」だった。

豆論文で構築するツェッテルカステンの保存・管理は、ローカル(パソコンもしくはタブレット)上に保存すれば自動的にクラウドにもバックアップされる形をとってきた。

あるとき、趣味の範囲なら可能ではないかと思い至り、公開状態のブログ上にツェッテルカステン様式で作ってみることにした。

投稿の中身としては、上述の「B6カード」とほぼ同じで、加えて「前後の投稿へのリンク」が付いている。

また、文献へのリンクもあるので(インターネット上のものであれば)資料へのアクセスが瞬時にできる。

公開が前提となるが、面識がない人からも意見や情報提供があり驚いた。

やろうと思えば、各種アプリケーションで可能でも、実際のところはどうかといえばなかなか難しい。

カード思考術を熟知し、アプリケーションの特長(もしくは癖)に寄せて運用できるなら構築できても、自分のスタイルを貫きたい場合はたいてい何かの壁にぶつかる。

実際に、これをScrapboxでやったみたところ、かんばしいとはいえなかった。

そのほかにはObsidian, Roam Researchでも、Notionでも無理がかかり、(ツールのやり方に寄せるように)妥協しないと構築が進まなくなってしまう。

京大式カード:梅棹は「カードをくる」と述べている

蓄積がある程度まで進む(カードが増えてくる)と、この「くる」という行為がいったいどんな意味を持っているのか、実感としてわかるようになってくる。

当初は、最小ブロック内の「タイトルと冒頭(豆文)」と「意味段落(小見出しと直下の文章)」ごとに切り出して豆論文としていたが、それでは小さすぎて数も膨大になり、管理どころか保存するのさえ大変で支障が出てきた。

このまま続ければますます多くなり、将来的には豆論文をひとつずつ読みながら考える(すなわち、くる)という営みが不可能になってしまう。

そもそも、文書にはテーマがあり、それゆえの「文脈に即した具体」だ。

いくらバラバラであることが肝でも、豆論文が埋没してしまっては意味がない。

ここで有用だったのが、(ツェッテルカステンではかんばしくなかった)Scrapboxである。

豆論文を追加していくことで数が増えても見返すことができ、すなわち死蔵することがない。

京大式カード:「事典」として機能する

文章というのは説明であり、抽象(ゆえに本質的な部分)を挙げたうえで、具体的な事例や方法を示して理解が深まるような形をとる。

この抽象に当たるのが京大式カードに組み込む「豆論文」で、これを蓄積していくと、そのなかから豆論文が生まれ、ときに連鎖するので「複利」に見える。

抽象・概念・モデル化と大げさに考えなくとも、自身にとってわかりやすければいいので「単純化」としてもいい。

これが自身にとっての「事典」として機能するわけだが、タイトルがないと何かと扱いづらいことに気づく。

特に検索時に困るので、豆論文の「一行サマリー」をタイトルにしている。

積極的にではないが外部に公開したことがあり、独自のカード思考術では唯一ここだけで、それも部分的だった。

京大式カード:パターン・ランゲージ

都市設計家のクリストファー・アレグザンダーが、古くからある街に見られる普遍的な要素を挙げ、それらに名称を与えることで「まちづくりの指針」となるとした理論体系。

他分野でも応用され、使い回しがきく「コツ」として周囲に伝える技術とされたり、悪例を集めることで「アンチパターン」を認識して回避するなどで広がった。

それらはおおむね、「状況」と「問題点」ならびに「解決策」という形で提示される。

京大式カードの豆論文に付すタグは、たとえば「人が集まってくるとしたら?」のように、「課題・問題もしくは質問」になっている。

タグによって「ゆるく縛る」ことを「小さなコロニー」と呼んでいる。

小さなコロニーはブログのカテゴリーに近く、豆論文のタイトルには「解決策」を示すような文言を付すことになる。

このパターン・ランゲージもまた、Scrapbox上に展開してみると非常に相性が良い。

なお、ハッシュタグは「同じ語句が出現する文章」をピックアップするために使うもので、(類似性を導き出すことはできても)状況や問題点を抽出しているとはいえない。

考察:なぜツェッテルカステンと京大式カードの「両建て」なのか

結論からいえば、文章を生み出すなら、京大式カードよりもツェッテルカステンに軍配が上がる。

なぜなら、カードをつけ加えていく過程そのものが文書の構成を練り上げていくようなものだからである。

先述したように、京大式カードの構築に何度も失敗している。

形にはなっていけども(肝心の)文書の作成に結びつかなかったことから、ルーマンのツェッテルカステンを試してみたところ執筆がすんなりと進んでいく。

そのうえ、B6カードを今までどおりに使いつつ、苦手意識をもっていた「続き物」も難なくこなせるようにもなった。

現状は、(別々ではありながら)ツェッテルカステンをコアに、それを京大式カードが内包するような形で調和している。

なぜ思考を巡らせるのに紙のカードが必要なのか

上述のように、思考の体系化は「ツェッテルカステン」が担う。

しかしながら、すでに10,000を数えるまでになった状況では、(デジタルで保存してあるため検索によって個別にピックアップすることは可能でも)もはや全体を把握するのが難しい。

ツェッテルカステンに組み込む豆論文については「紙のB6カード」でも作成し、これを連ねることでツェッテルカステン上の「筋道」が擬似的に再現され、現物として手元に置いておける。

目視できる(カードをくる)ことで改めて確認したり考え直すこともでき、新たに豆論文が生まれて本体に組み込むこともある。

この作業はデジタル上でもできなくないが、紙のB6カードを使う場合ほど容易ではない。

最小ブロックを単位とする意義

文書の作成において、最小ブロック(1,500〜2,000字)での執筆が10万字超でも通用するとわかったのは大きな収穫だった。

ブログの記事(10,000超)を書いてきたことで「得意とする文字数」という認識はあったが、単発だから可能なんだろうと思っていた。

それがいわゆる「続き物」でも、最小ブロックそれぞれに内容を十分に検討し、順番を確定させておけば、局所的な部分に集中しても全体の流れ(論理)が破綻することはないというのは、気が楽で書くことに疲れない。

紙のB6カードによって何を主題(主張)するかという「詰め」がほぼ終わっているので、残るは文章を書く(キーボードで打つ)ばかりという単純な作業だけである。

どのようなプロセスを経て文書化していくのか

いくら紙のB6カードが手元にあるといっても、たいてい紙幅(文字数)の制限があり、そのまま「章立て」もしくは「筋立て」したところで原稿には仕上がらない。

よって文書化のおりには、いくつかを重ね合わせたり逆に間引いたり、ときには順番を入れ替えて構成を考えることになる。

本体は「思考の記録であり、体系」として形づくられているので、部分的とはいえ序列を崩すわけにはいかないが、紙のB6カードであれば自由自在である。

そのうえ余白があるので、「小見出し」のほか、「文献」や「写真・図表の有無」などの補助的な情報、注意事項も事前に準備できる。

ここまで整っていれば、あとは「カード1枚で最小ブロック」を単位に執筆すればよい。

仮に順番を不問に書き進めたとしても、すでに熟考のうえで構成が決まっているので、間違いなくつなぎ合わせれば筋が通る。

梅棹の執筆

「こざね法」(KJ法のB型とほぼ同じ)は、材料を揃えてから全体の流れを決め、執筆という順番になる。

言い換えれば、揃わないうちは着手できないということであり、これでは締切(たいていいつも追われている)が気になって落ち着かない。

これがツェッテルカステンであれば、揃えつつ順番を決め、ときには並びかえながら全体を整えていく。

日々の作業で思考の体系化が少しずつできていくことから、文書についてもたとえおぼろげでも「おおよそこうなるだろう」と目測したうえで、締切に間に合うように準備ならびにスケジュールを調整できる。

事前に十分なほどの材料を揃えるという点について怠ったことはなく、構成が決まってしまえば書くのは難しいことではないとわかってはいるが、(締切が近づいてくるなかで)全体の流れを決めてからでないと執筆を始めないという大胆な方法は取れない。

読む→(考える)→書く→(考える、調べる)→読む→(考える)→また書く

このサイクルができあがってから、日々なにか書かないと落ち着かなくなっている。

文書の作成が目的ではあるが、時間の配分でいえば、「読む」と「考える」が圧倒的に多く、これは「メモの項」の作業に当たる。

また、ツェッテルカステンに組み込まれた「筋」を追ったり、京大式カードの「小さなコロニー」をつぶさに確認することも含む。

たくさんのB6カードを眺める(梅棹のいう「くる」)ことは体系化を進めると同義で、思考を巡らせるための必須アイテムである。

紙で思考を体系化させることでアウトプットが促される

「ツェッテルカステンと京大式カードの両建て」で独自のカード思考術を構築したことにより、質・量とも満足できるアウトプット(文書の作成)ができるようになった。

カードの中身は共にメモから昇華した「豆論文」だが、その数がふくれ上がっている。

紙のB6カードをくることこそが思考を巡らせることであり、これによって独自のカード思考術を生き生きと保つことができる。

したがって、作業の大半を「メモから豆論文を作り、それをどこに組み込むか」と「紙のB6カードで思考を巡らせる(くる)」に費やす。

おわりに:独自のカード思考(整理)術の構築に失敗しないために

梅棹は、インタビューを受けた際に「京大式カードの構築に失敗した」と告げられ、「手習いとして試み、独自の手法をたぐり寄せればいい」と笑い飛ばした。

『知的生産の技術』にならって構築すると「長い助走」が必要となり、(使い物になるまで)出口が見えず心が折れてしまう。

本稿では、文書の作成を目的にツェッテルカステンを先行させ、京大式カードを並行して進めれば失敗を回避できることを事例として示した。

たとえ小さくとも独自に構築したカード思考術から長短の文書が自在に作成でき、その過程で生まれた豆論文を組み込むことで全体として「ふくらみ」をもつようにもなっていく。

これがルーマンがいうところの「対話」であり、「複利」のような働きと見なせるだろう。

読めば書く、書けばまた読み、新たに書くことが浮かんでくるというサイクルに入ってしまえば、文書を無限に生み出し続けることになるといっても過言ではない。