梅棹忠夫の京大式カードとニクラス・ルーマンのツェッテルカステン

「知の巨人」と呼ぶにふさわしい2人の学者が、それぞれ独自の情報整理術を編み出した。現代において紙のカードはそぐわないと言うなかれ、思考を巡らせるために適したツールとして、2つの整理術はいまだに役に立つ。

紙のカードで思考し、デジタルで保存・管理する

分野は違えど学者である梅棹忠夫とニクラス・ルーマンは、多数の書籍と論文を残した。また、それぞれが膨大なカードを作り、ともに研究の対象にもなっている。

その整理術には思想的に共通している部分があり、相違点には着目すべき要所を含む。

それらを紐解きつつ、みずからもカードを蓄積し、整理していく中で見えてきたのは、収納(保存・管理)とはまったく別の、思考を巡らせるためのツールとしての側面である。

梅棹は著書『知的生産の技術』で「いちばん重要なことは、組みかえ作業である。知識と知識とを、いろいろに組みかえてみる。」(p.57)と述べており、これまでの経験からも、何度も繰り返すうちに突飛な(されど馬鹿にできない)案が見つかるという点において、紙が断然すぐれている。

(書き留めねば綺麗さっぱりと消え去ってしまう)頭に浮かんだ思考を言語化し、次々に公開していくさまは、それら文書の質と量を前に同僚がいぶかるほどだったが、カードの扱いに慣れて要領がわかってくると比較的に容易である。

それもそのはずで、ルーマンの整理術は、文書をいくらでも生み出す玉手箱のような「思考術」と換言してもいいだろう。

この紙のカードによる思考術は、考えを整理しながらまとめていく手助けをしてくれるうえに、その一連の作業を通じて文書化する際の構成まで浮かび上がらせる。

なぜ思考は紙でなければならないのか、またデジタルで保存・管理しているカードとはどんなもので、それらを使ってどのようなプロセスを経て文書化していくのかを記しておきたい。

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※デジタル:パソコン・タブレット・スマホなどのローカル上で使うアプリケーション、インターネットを介して利用するクラウドなどのWebサービスやツール類の総称として使います。

※以下、このページのリンク(言葉の定義や参考文献など)はサイト内の別ページに遷移するようになっており、そこにあるリンクより先は外部です。

はじめに:京大式カードを紙とデジタルで併用

大量のアウトプットができるようになったのは、やはり自分にとっての最適解が見つかったことだと思います。

  • (個人用途)ブログの記事2,000〜3,000文字
  • 社内用の文書5,000〜10,000
  • 寄稿ほか〜50,000
  • 報告書100,000超が年に2〜3本あり、これの下書き

上記のように日頃から相当の文字数を書いており、急な依頼で時間に追われることはあっても、文章が出てこないといった感じで困ることは、今はもうありません。

異常とも言える量だと同僚たちがいぶかしげに聞いてくることが何度かあり、あらかた説明してみるのですが、「そんな古臭い方法で? 何か隠してないか?」とまで言われたこともある。

京大式カードのことはよく知られていても、それを今もって本気で実践し、それなりの質を保ったうえで量も出してくるというのは信じられないことらしい。

そんなことが先日もあったので、次の機会のために体系的にまとめておきたいと思います。

一般的には情報カードもしくはインデックスカード

当時から一般的だったカード(標準サイズとして欧米・国内で現在も流通している)の2.5倍ほどあるB6判を採用し、カード型データベースモデルとしてデジタル環境でも応用されていますが、現状では下火であることから、それほど注目されているわけではない。

京大式カードは、その成り立ちからして研究者向けに考えられたものであり、使われてきた経緯も含めて一般とは明らかに用途が違います。

その一方で、紙片としての「情報カード」は、文房具としてばかりでなく100均でも売れ筋となっており、汎用性があるとの認識で様々なサイズで販売されている。

また、無印良品でうず高く積まれているブロックメモも、一定の寸法でパッケージ化されているという点において共通しており、これも人気の商品である。

紙からデジタルへの移行は失敗続き

これまでカードを使った文書の作成を試み、何度も失敗してきました。その証左がこのサイトです。

2014年の開設なのにコンテンツがほぼないのは、振り出しに戻った際にコンテンツを消去しているからで、2023年末に再開していますが、その前は2021年で更新が途絶えています。

スマホだけでも扱うことができる便利さから、紙からデジタルへと移行して、何とか継続しようとしては挫折し、また再開を繰り返して10年が過ぎようとしていた。

そんな折に転機が訪れました。

コロナ禍の混乱の中で

ツール類は以前から整備されていましたので使い方は問題ないとしても、フルリモートワーク環境にいきなり突入したことで、部署内のコミュニケーションがこれまでのように円滑には進まなくなりました。

また、区切りで提出を求められる文書を作成するだけでもプロジェクトの後半になると憂鬱だったのに、頻繁に進捗を報告しないといけなくなり、(後でフォローが必要になるようなことがない)誤解を生まない表現にほとほと困りました。

(世間の誰もがそうであったように)何もかもが手探りだった頃に部署をまたいだ組織の再編が行われ、Slack越しではあるものの博士号持ちが身近にいるという環境に異動することになります。そこには、趣味で書いた小説を投稿・販売している先輩も含まれていた。

驚いたことに、文章を得意としていそうな人であっても時と場合によっては苦しむことがあるんだと知ったのは大きかった。

そのうえ、書くことに向き合う時間は、リモートワーク環境下では思いのほかある。

紙とデジタルの併用に可能性を感じる

この頃までには最終的な提出物がデジタル上のファイルだからと紙をほとんど使わなくなっており、アプリやツール、Webサービスなどのほうが何かと便利だと思いきやそうでもないことに気づくまで、それなりの時間を過ごしていたことになります。

とは言うものの、相当の文字数になることがわかっていて紙上に文章を書けば二度手間になってしまう。

そしてたいていの場合、一度に書き上げることはないですからファイルは分割して保存することになり、専用のソフトウェアやツールを用いても全体の仕上がりを把握するのが難しい。

それらファイルの前後を違和感なくつなげるのが案外と大変で、なんとかしようと文章を調整し始めると、あちらもこちらもと収拾がつかなくなる。

ツールは手助けしてくれるが、必ずしも万能ではない

例えば、思考の整理と執筆をひとまとめにして進めるためのアウトライナーを使ったとして、考えがあって、ある程度の方向性まで決まっていれば有用です。

逆に、その前段の「おぼろげだが何となくまとまりそう」といった場合には、そうとは言い切れない。

ここなのです。このときに役立つのが紙のカードで、考えを巡らせるためには手を動かしながら組み替える動作が何らかの鍵を握っているように思えた。

その結果、京大式カードの理念を基に紙とデジタルを巧みに使い分けることで、あれほど苦しんでいた文書の作成がとんとんと進んでいく。これは一体どうしたことか。

カードはどんどん増やしていい

どうして文章が次々に出てくるようになったのかといったところは「実践」以降の本編で明らかにするとして、もうすでに(京大式に限らず)カード思考術を実践している、もしくは今まさにそのときという人にアドバイスを送るとしたら、臆せずカードを増やせ

進めていくうちに不要だと気づき、結果的に無駄になったとしても、どういったカードが残っていくことになるのかを知るには不可欠なのです。

従って、何となくわかってくるまで、カードはどんどん増やしていくことが近道になるはずです。

それがもったいないと感じるなら、適当なサイズのメモ帳などを使って進めていき、残ったものをカードに転記するといったことでも構いません。

さて、ここまでの序文を読むと、デジタルを併用しつつも主体は紙と思われたかもしれませんが、その趣意は思考には紙、アウトプット(情報の集積と文書化)はデジタルです。

実践:梅棹が考えたB6判カードの本質

昨今は常にスマホが手元にあり、ネットにつながったアプリやツールが豊富かつ無料で提供されていることから、紙を使うことが古めかしく思える。

また、エコロジーやSDGsの観点から避けねばならないこととして、(現物としての)書類の撤廃が当然との社会的な風潮もある。

そんな環境下にあっても紙を使って作業をするというのは決してノスタルジーではなく、ましてや反骨でもなく、頭の中を整理するのに最適だと確信してのこと。

カードにタイトルと日付を書き入れ、その下に文章を書くとなると、それなりの量ではあるが、だらだらと書き連ねるほどには余白はない。

この「それなりの量」というのが絶妙で、進めていくうちに粒度が揃ったカードが蓄積されていくことになるのだが、梅棹があえてそれまで使われていたサイズではなく、最適だとしたのがB6判である。

梅棹が自著『知的生産の技術』(岩波新書, 1969, 227p.)において紹介したことで「京大式カード」として広まりましたが、実務では「B6カード」と呼んでいたとのこと。

アトミックノート

ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンが考案したカード思考術「Zettelkasten ツェッテルカステン(後述)」の原則的な取り決めとして「Atomic Notes」があります。

これに「原始的な」という形容詞を付けているのは、何度も再利用できるようにカードに書く内容を極限まで削るとの意図をもたせるためだと考えられる。

このことについては、始めた当初から頭にあったものの実のところは理解できていなかったにもかかわらず、だんだんとその意味を実感することになっていきます。

一旦の区切りが見えてきた頃には、廃棄することになると思われるカードが積み上がっていく一方で、ずっと使っていくことになるであろうカードも少なからずあり、これがすなわちAtomic Notesです。

そしてこれらは自分にとっての「Atomic Notes」であって、人それぞれということですから、実践の中で見つけ出していくほかありません。

なお、Andy Matuschak考案の「Evergreen notes エバーグリーンノート(後述)」も、このAtomic Notesを原則としています。

豆論文

梅棹は、別の表現ではあるが、同じような趣旨で次のように述べている。

カードは、他人がよんでもわかるように、しっかりと、完全な文章でかくのである。「発見の手帳」についてのべたときに、豆論文を執筆するのだといったが、その原則はカードについてもまったく同じである。カードは、メモではない。
梅棹忠夫『知的生産の技術』p.55

別の言葉で言い換えれば、“1ページに1要素”ということであって、この点では上記2つのカード思考術と共通しています。

ただ、梅棹は削るというアプローチは取らず、肉付けするような理論の構築を内包させるべく豆論文と表現している。

今ではいくらか独自の手法が加わり、梅棹とは違っていますが、“単なるメモ書きに終わらせないで、文章として完成させておく”ということだけは頑なに守ってきました。

そうであったからこそ京大式カードの本質をつかみ取ることができたのではないかと考えています。

実践に必要なのはB5のコピー用紙のみ

B6判のメモ用紙というのは市販ではほぼ見当たらないので、量販店または100均で購入し、半分に裁断するといいでしょう。

やり始めると週に100枚ほど使うことになるはずですから、多めに用意しても案外すぐに減っていきます。

ちなみに、京大式カードは「情報カード」との商品名で同じ様式もしくは類似品が市販されていますが、当初はコピー用紙のようなもので十分ですし、代用できそうならサイズにこだわらず始めます。

また、ざっくりでいいので分類(後述するKJ法に沿ったアプローチ)し、もし判断に困ったら「そのほか」としてまとめておきます。

梅棹は分類するなと書いていますが、発想が不自由になるのを防ぐためであることから、カードを作るのが先で、次に分類の順を守れば問題ない。

間違っても、分類を念頭に置いて、そこに入れるカードを作るようなことは避けなければなりません。

情報やアイデアの洗い出し

KJ法(後述)は、その前段に「情報やアイデアの洗い出し」のステップがあり、ここでも分類は気にせず、どんどん出していくことを最優先にしています。

また、梅棹はフィールドワーク中のすべての記録をノートに記入し、それを持ち帰ったのちに転記して大量のカードを作成しています。すなわち、これが洗い出しです。

実践を始めたばかりであればカードがまったくない状態なので、これらにならってどんどん作っていき、この時点では質より量を重視します。

この工程が非常に重要で、何がカードとして残っていくのかが感覚的につかめてきます。

結果的に廃棄分が相当に出てしまうことになりますが、それでも避けるべきではありません。この感覚的な部分は教えられていなければ知る由もなく、これが先述の何度も挫折した原因です。

ここで焦らずじっくりと取り組めば、Atomic Notesや豆論文の意図するものが若干でも実感できるようになるはずです。

思考を巡らせ、体系化できれば、文章を書くのは単なる作業になる

これが京大式カードの本質で、思考を巡らせるためには紙のカードが必要であり、(それがたとえおぼろげでも)考えがひとたびまとまれば、意外にも文章がふわっと浮かんできて、すらすら書くことができるようにもなる。

今や文章を書く(実質的にはキーボードで打つですが)ことは、単純作業といっていいほどになっています。

イメージとしては、頭の中に浮かんだ言葉をただただ打っているだけで、音声入力で文字起こしをした後に修正するのも、単に手段の違いであって何ら変わりはありません。

ここに至る過程でB6判のカードのみを用いるのは、組み替えが自由で手間取らないこと、時と場所を選ばずどんなときでもどこでも可能だから。

デジタルでもこれらは可能ですが、マウスもしくはタッチで操作を繰り返すのは思いのほか大変です。

また、やっぱり元に戻そうといったことが頻繁に起こり、ちょっとした書き足しでも開いて保存してという手数が必要になりと、操作がだんだんわずらわしくなってくる。

紙を使えば、増減、並び替えも自由自在で、融通がきき、柔軟性もある。これがデジタル(ディスプレイ上の操作)ではどうしても限界があり、大きなデスク(なければ床)の上であれば一覧性まで確保でき、いくらでも拡張できもする。

こうした夢中で遊んでいるかのような、ものに触れつつ手を動かす営みこそが、思考を巡らせ、体系化することに他なりません。

現物の本は、今日でも情報源として必要とされている。仮に、雑誌から寄稿の依頼があったとして、その流れを並べてみます。

本を読む→パソコンなどで原稿を書いて、データとして入稿し、印刷→紙で流通

情報のインプットとアウトプットは紙でも、その中間はデジタルです。

一般人であれば、電子書籍で読み、スマホなどを使って文章を書いて、ブログで公開といったように、すべてがデジタル上で行われても何の違和感もありません。

梅棹が『情報生産の技術』を上梓したのは、各家庭に白黒テレビが行き渡ってしばらくのことですから、世の中の何もかもが紙ベースだった。

翻って今や、平成にレトロを付け、昭和なんてノスタルジーというくらいなので、「チラ裏」なんて言葉は死語どころか、聞いたこともないと言われても不思議ではありません。

インプットとアウトプットの中間がデジタルに置き換わった時代に、50年以上も前に論文を書くための手法として確立された「京大式カード」が生き残る隙はあるのか?

情報やアイデアを洗い出し、それらを分類することで見えてくるもの

これまで述べてきた京大式カードのあれやこれやは、インプットとアウトプットの中間の、その最初のところで役立つメソッドです。

本や資料を読む、映画を見る、気になった言葉・事柄を調べる、誰かに聞いた話、雑誌の切り抜き、ブラウザのブックマークも、情報やアイデアの洗い出しであり、これらはインプットをきっかけに生まれてきます。

先の実践:梅棹が考えたB6判カードの本質で、「ざっくりでいいので分類する」と書きました。

カードが数百ともなると、ざっくりであっても傾向が出てきます。それは単に、「どれかだけが突出して多い」といったことかもしれませんし、「数こそ少ないが自分にとって重要」という場合もあるでしょう。

試してみないことにはわからないこととして、同じようにカードとして作ったはずなのに、おのずと性質の違いのようなものが出る。

優劣といったことではないが、全体としては正規分布に従っていて、さほど重要ではないものがある程度の量で存在していても慣れてくると少なくなっていきます。

また、残りの大半には使い道があり、その中には気になるカードもそこそこある。まさに、これが京大式カードに転記すべきものです。

紙の京大式カードをデジタルに転換する

紙からデジタルへと転換する際に、以下のような分類に当てはめて実行しています。

  • Papers: 原稿が必要になった時点で、表題や文字数などの概要を書いておく
  • Notes: Papersに組み込まれる豆論文で、1,000文字前後が多い
  • Cards: ひとつの原稿のためではなく、何度も使うために作る
  • Lists: Notesで参照する文献やデータ、引用などをリスト化
  • Memos: Cardsの元ネタにもなる雑多な走り書き

それぞれの詳細については、この後で述べるとして、カードの洗い出しをすると、明らかに性質が違うので分類に困るといったことはありません。

また、これらに分別の線を引くとしたら、Papers,Notes / Cards,Lists,Memos です。

前者は他者が読むことを前提にしたアウトプットであり、後者は自身の考えを文字にしたもので、いわば手札です。

この手札を自由に組み合わせ、そこから生まれてくるストーリーを、言葉を紡いでいくことで目に見える形にしていく。

ここから言えるのは、後者の3つがあれば、前者の2つはいくらでも生み出すことができるので雪だるま式の様相となり、複利(梅棹はこれを蓄積効果と表現している)が得られる。

京大式カードの枚数が少ないときにはまったく感じられなかったのに、複利のような働きに気づいてからは、文章はいくらでも出てくるものという認識に変わりました。

なお、運用としては、前者は原稿が書き上がったら消去もしくは移動して進行中のものだけを残し、後者はこれまでのすべてをストックしてあるので数百万の単位になっています。

原稿を仕上げる

Papersは、朝には必ず確認し、一日たりとも見ない日はありません。現状では(締切が近い順に)常時20項目くらいあって、日に何度も見ることになります。

Notesは、Papersの項目別に分類(Evernoteで言えばノートブックに該当する)してあり、出稿先が決まっていなくても先行して書くので項目数はこちらが上回っています。

例えばブログの記事を書くなら、Notesから2〜3選んで組み合わせ、その前後に文章を付け足して仕立てるといった感じです。

これは文字数10万超でも基本的に変わらず、違いといえば、Papers上の詳細な構成図に従って計画的に書いていくことくらいです。

ちなみに、このページのためにNotes内に保存してあったファイルは20あまり。次の段にあるCards,Lists,Memosまで含めると200ほど(これとは別にブラウザのブックマークが重複を含んで260超)となっています。

Cards,Lists,Memosについての補足

詳細は考察の項にて述べることとし、ここではあらましだけ記しておきます。

Cards
いつでも参照できる状態にしておきたいので、情報として蓄積しつつWebでの公開ほか、最近はnostr,blueskyにも投稿しています。
Lists
主に参考文献で、引用や著作権の確認が不確かなど問題を含む可能性もあるのでローカルに保存してあります。
Memos
Cardsの元ネタになるような雑多な走り書きやブックマークのようなものですから、X(旧Twitter),Threads,Misskey,MastodonなどのSNSへの投稿ほか、各種Webサービスも利用しています。

京大式カードの本質をふまえて拡張する

そもそも、拡張などといって性質の違いから5つに分類し、複雑にしてしまっているが、京大式カードの思想は単簡である。

インプットとアウトプットの中間の、その最終形態がデジタルとされている(紙の原稿を快く受け付けてもらえるのは大御所の作家くらいでしょう)ので、現状ではこの複雑な手法を最善の落としどころとしているにすぎない。

ここまで「紙のカード」といって「ひとくくり」で述べてきましたが、現物としては次の3種類があります。

  • ブロックメモ:7.5もしくは10cm角
  • B6カード:B5判のコピー用紙を裁断(白無地)
  • 情報カード:市販品のB6判(上質紙・白無地)

ブロックメモ

何かを思いついたらすぐに書きつける。そのままゴミになる場合もあるが、考えがまとまってB6カードに書き直すこともあれば、Memosとしてデジタル上に残すこともあり、最終的にはすべて廃棄します。

B6カード

作ったら分類してクリップでまとめておき、時間があれば順番に目を通します。Cards, Notesに転記した場合は廃棄するつもりで専用の箱に放り込む。

また、文字数が多い原稿の場合には複数枚を組み合わせ、構成が決まったところでPapersを起こし、Notesにそれぞれ別々に転記したあと、ステープラーで留めた上で先程の箱へ。

情報カード

重要・至急・要注意などのラベリングを付けた場合は、テーブルの決まった場所に置いておき、日に何度も確認します。また、注意書きなどを書いて分類したB6カードの表紙としても使う。

さらに、興味・関心を持っている事柄についても書き出してあって、よく目を通しています。これがPapersへと発展する、もしくは寄稿先を探して、見つかればPapersを起こすということもよくある。

何かを追究・探究するには時間がかかり、1年なら短い(個人であれば資金の面からもなおさらそうなる)ほうだろう。

原稿を作り始める段階で作るPapersよりもずっと前に標識としての情報カードが必要で、これさえあればせっかくのアイデアを忘れてしまうことも、収集した情報やデータが死蔵されることも防ぐ。

紙から紙へ、紙からデジタルへ

紙のカード(特に先述の情報カード)を作るということは、重要度や優先度を意識するための手続きのような意味を持つ。

繰り返しになるが、これら紙のカードは考えを巡らせるための手札であり、情報やアイデアの洗い出しの結果として次々に生み出され、デジタル化の元種としての役割を担う。

通常のアウトプットはhtml, pdf, txt, epubのデジタル様式のファイルなので、インプットとの中間において、紙の利点を活かしつつその先にはCards, Lists, Memosがあり、Papers, Notesへとつながってもいく。

言わば、紙からデジタルへの転換は、情報やアイデアが昇華して形になっていくという無形から有形への転換点を意味します。

考察:デジタル・ツールを補助的に使う

結論から言ってしまえば、文書の作成は、構成が決まればできたも同じである。

家庭を持っている誰もがそうであるように、在宅時に落ち着いて何かをするのは難しく、週末の深夜に時間が取れればまだいいほうで、かなわないまま週明けを迎えることも珍しくない。

それでも文章を書かなければならないとなったら、細切れの時間でも使ってやるしかない。

だから、手っ取り早くスマホやタブレットで使えるようにとデジタル・ツールを選んでみたものの、生産性は一向に上がらなかった。

そんな折に「コロナ禍」へと突入し、「平日の昼間に落ち着いて向き合う時間ができた」ことと、「業務で日常的に文書を作成する必要に迫られた」ことで京大式カードの本質をつかむことができた。

振り返ってみると、紙が主で、デジタルを従とするとの取り決めが分水嶺だった。

手元に何もない状態からだと5,000文字でもなかなか大変だが、事前に練り込んであれば10,000なら言うに及ばず、30,000〜50,000あたりでもプレッシャーを感じることはありません。

原稿にするだけなら1日あればできるくらいには物になっているので、京大式カードはデジタル全盛の現代でも通用すると考える。

なぜ頓挫するのか?

京大式カードの実践者たちが述べているように、実践を始めてから相当の時間が経過(カードがある程度まで増える状態に)しないと、その効果・効能が実感できない

カードを作成したところでそれらが単なるメモに思えて中断してしまうので、一山を越えるまで続けることができないというのは自身の経験からも同意するところです。

また、梅棹は「カードは、ばらばらにできるところに意味がある」との趣旨で発言しているが、これも実践が浅いとその意義を感じ取ることは難しく、得心するまでとなったらかなりの熟練を要する。

したがって、行く先を信じて遅足でも進まないことには、京大式カードの本質が見えてくる域(腑に落ちるといった心境)まで到達することができず、その長い道のりの途中で挫折してしまうことになる。

京大式カードはセレンディピティを生み出す

ばらばらになった多数のアイテムを分類する際、その共通点や類似点でグルーピングするというのは、多くの場合に最初の手段である。

ただ、発見と言われるものは「今までにない」ということだから、常に同じ視点ではかなわず、別角度から観察しなければならない。

故事を引けば、ニュートンがリンゴが木から落下する様子を見て万有引力の法則を発見したように、偶然が何かを生み出す。

梅棹は「カードをくる」と表現し、そこから何かを発見しようと、それが習慣になっていたようにも見える。

まだその域に達しているような感覚はないが、生まれたばかりのアイデアを紙のカードに書いて目につく場所に置いておくと、ふいに手に取ってみて、そこで何かを思いつくといったことがこれまでに何度となくあり、これがそうなのかもしれない。

ルーマンのカード思考術

ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンが考案した「Zettelkasten ツェッテルカステン」は、その存在が後に遺産相続に発展するほど価値を持っていた(もしくは持っていると思わせた)ようです。

欧米では一般的なインデックスカードの標準サイズを使用しているので、京大式カードほどは情報を載せることはできず、さらには記号など補足情報まで書き込むのでなおさらです。

また、梅棹と同様に、関連を見出しづらいカード間で思わぬ発見をするというセレンディピティについての言及がある。

ルーマンは学者ですから「パラグラフ・ライティング」に忠実だったはずで、カードにはそのパラグラフを一言で表した「トピックセンテンス」のような一文だけといったことが、インターネット上で公開されているアーカイブから見て取れる。

そして、これに肉付けするように文章にしていったと考えれば、この点では梅棹は「肉付けした後の文章(すなわち豆論文)」をカードに書き込んだことから、若干の相違があるといえよう。

知の蓄積

梅棹とルーマンの思考術は、本質的な部分では同じといっていい。

先述の「セレンディピティ」もそうであるように、多数の書籍と論文を残したことも似ている。

その源泉となったのが知の蓄積であり、両者では表現こそ違っているものの、その思考術から文書を生み出し、後進に多大なる影響を与えた。

実際にカード思考術の本質に触れると、湧いて出てくるがごとく文章が浮かび上がってくる。

両者はきれいな言葉で言い表しているが、貴賎なしとして述べれば、それはまさに複利そのものであり、すでにそう書いた。

現状をたとえれば、「少々では使い切れず、結局は残ってしまって元金が増えるばかりの雪だるま式を地で行く」ようなものである。

カードは一方的に増えていき、それによってますます文書を生み出すのが簡単になっていく。

また、一見では無駄に思えたカードさえ時に役立つ場面がこれまでに何度もあり、失敗の事例が積み重なっている状態も貴重な情報で捨て置くことはできない。

かように知の蓄積を実感しているところです。

幾重にもバックアップして、京大式カードを守る

これまで蓄積したデータが消え去るなどということは考えたくもないので、そうなる前にやることといえば万全のバックアップです。

商家が火事になったら番頭が大福帳を持って逃げるか井戸に放り込むがごとく、危機的な状況下でも事後に何とでもなるよう重囲に構築してあります。

ローカル上に置いたファイルは、意識せずとも勝手にクラウドに同期され、外付けのストレージにレプリカが作られるようにもしておく。

特に慎重な扱いになるのがCards,Notesのファイル群で、Cardsは知の蓄積そのものであり、Notesは締切がある最終原稿に組み込むことになるので喪失したら大失態どころの話ではなく、方々に迷惑をかけてしまう。

これらは、ファイルに対して何らかの操作が行われれば自動的に保存され、更新履歴(直前との差分)が残るので、もし消えるような事態に陥っても、ひとつ前の状態に戻る形で取り戻すことができる。

Lists,Memosについては、そのひとつひとつは取るに足りないものではあるものの、必要性を確認するにはあまりにも数が多く手間もかかるため、ある程度の量になったら圧縮してクラウド上に保存しておく。

また、SNSやWebサービス上などインターネットに公開してあるのも補完的なバックアップとして機能しているといえるだろう。

最後には、たぶん取り出すことはないと思いつつ、クラウドのストレージサービス(頻繁に使用せず、取り出すのにも相当の時間がかかることと引き換えに低料金)に放り込んでおく。

ここからデータを掘り起こす事態とは、ローカルから普段使いのクラウドまでのすべてでバックアップが機能しなくなったことを意味する。

日々の作業の流れ

すでに習慣となったことで、自宅のデスクにはカードの束がいくつも置いてあり、山積したデータはバックアップで死守するまでになった状況からしてデジタル資産と呼んでいいかもしれません。

ここまで、Papers, Notes, Cards, Lists, Memosと序列をつけるように並べてきましたが、これを日々の作業の流れで並べ替えるとほぼ逆順になり、現状の数量もMemos, Lists, Cardsがほか2つよりも圧倒的に多く、その3つではMemos, Listsが数え切れないほどで、Cardsも相当数ある。

これら5つはフォルダ(紙挟み・箱)のようなもので、それぞれの詳細と使っているツールやWebサービスなどを列挙しておきます。

Memos: 発見の手帳

梅棹の言及を自分なりの言葉にすれば、メモがすべての出発点になる。

そのメモは、インプット(本や雑誌、Web上の記事を読む、テレビやYoutubeを見る、ラジオやPodcast、ライブチャットを聞くなど)時に生み出されます。

初期には紙のブロックメモに書き出していましたが、結果的にどのような形で収まっていくのかがわかるようになったので、現在は紙・アプリケーション・Webサービスのそれぞれに収納しています。

1日に生み出されるメモの実数は(把握する必要性に乏しいので)不明ながら、日によって違うにしても10や20ということはなく、100超も珍しくない。

キーワードではなく、文章で残す

メモだからといってキーワードだけ書き残した場合、その日のことであるのにもかかわらず、時間が経つとシチュエーションや時間は何とかなっても、そのときに考えていたことを鮮明には思い出せない。

よって、できるだけそのときどきで文章として残しておくのが賢明で、(箇条書きにすることはあっても)ちゃんとした文章として完成させておく

論に至る手前といえばいいだろうか、まとまった形にはなっていないという意味でメモとして残すことにしている。

「ひらめきは、その瞬間に泡のように弾けて消えてしまう」ので、この点に心しておきたい。

梅棹は「発見の手帳」の項で、「なにごとも、徹底的に文章にして、かいてしまうのである。」(知的生産の技術, p.26)と書いている。

紙のブロックメモ

いずれは(原形を留めなくとも)デジタルで保存することになるのですが、先にやっておいたら便利というわけではなく、分類または組み替え、順番に並べるなど手元にあることで思考の助けとなる紙のメモは欠かせないアイテムです。

前工程として何らかの作業が必要という場合でも、当初は書いた日に廃棄といったことがあったものの、今ではそうそうない。

また、紙のカードにメンディング(マスキング)テープで留めて使うこともあり、その役目を十分に果たす一方で、(もったいなく思えて)ポストイットのような付箋紙は限定した場面のみで、あまり使わなくなりました。

紙のメモがデスクにあるということは先に解決すべき事項または行き先を失っているなどのサインとしても働き、常に意識することにもなる。

KJ法

文化人類学者の川喜田二郎が考案した「データをまとめる」ための手法で、データを紙片に記入した上でグループに分類し、発想・着想に結びつけていくというもの。

新卒での入社時に、外部から講師を招いて研修でグループ討論を行う際にKJ法を初めて体験しました。

このときには感触があったのに、ひとりでもできるということだったので、のちの機会にやってみたら手応えがない。

結局それきりだったところ、紙のメモを使うようになってから本来の目的である「発想・着想」に重点があるのだと気づくことになります。

論理の「帰納」と「演繹」にしても、結論を導くまでの過程で情報を整理する際に「質と量」に注意を払う必要があり、これはここでいうメモでも同様です。

マンダラート

別名「マンダラチャート」とも呼ばれ、目標の達成や課題の解決、計画の立案などで用いられる思考整理術のこと。

必ずしも役立つとは言い切れないため詳細までは踏み込まないとして、メモを使った発想法につながるという点を指摘しておきたい。

その場面としては、何かつかめそうなのにはっきりせずモヤモヤするようなときに、事実関係をメモに書き出し、それらからさらに関連していそうな事柄を抽出する。

目で見て、考えて、ときには手を使って並び替えてみるなどが発想に結びつくことがあるので、とにかく頭の中からいったん出してみる。

こんなとき、デジタルのツールよりも紙のメモのほうが思考の邪魔になりません。

Scrapbox

国内発の情報整理サービスで、使い方がやや特殊(プログラマーであれば問題なくても一般なら戸惑うだろう)で慣れるまで手間取る一方で、実によく考えられた魅力的な機能を持つ。

投稿にリンクやタグを付けてあれば、欄外に同じものを含んだ投稿が自動的に表示される。

この機能は、自分が管理するページなら便利という程度だが、共同で編集するプロジェクトのページを(参加していなくても)閲覧すると、そこには関連情報が並んでいるので一気に理解が進む。

他ユーザーの動向が情報収集を助けてくれることを考えると、自分のための情報整理を目的とするだけで使うのはあまりにもったいない。

なお、個人用途であれば、全機能が無料で利用できる。

X(旧Twitter), Mastodon, Misskey

旧Twitterの頃には検索性に優れ、保存先としても信頼感がありましたが、Xとなった今は怪しくなって移転先の候補を探しておかねばと考えるまでになりました。

また、MastodonとMisskeyについては、ソフトウェアとしての興味で使い始めていますが、コミュニティの性格がまだ確立されておらず流動的なので、メモの保存先として有効であるかの判断を先送りしている状況です。

それでも各種SNSはメモの有力な保存先になり得ます。

Google Keepほか、メモ・付箋アプリ

パソコンやタブレット、スマホにも純正が付属しており、そのほかにもGoogleの製品シリーズや各アプリストアには多種多様に見つかります。

好みもあるのでどれがいいのか一概にはいえず総体的な感想となってしまうが、保存するには十分でも生かすとなると難しい印象があり、結果的に死蔵してしまうことになる。

誰しも心当たりがあるように、溜めるだけだけ溜めて、それを有効に使っているかとなれば首肯しかねるのではないか。

現状では一時的な保管といった使い方で、のちに転載することが多い。

だが、大手が提供するクラウドサービスであれば、用例を採取するような場面で、その数が膨大となってもきびきびと動作するので選択肢には入れておきたい。

Evernote

使い勝手がよく、長らく愛用(一時は有料ユーザーだった)していたのに、動作が重くなって満足できなくなり、とうとう使うのを諦めました。

高機能なのに無料とあって、類似のサービスが出てきても揺るがないほどの便利さで、メモアプリとしては断トツだった。

かつてはEvernoteさえあれば事足りると使い倒していたくらいで、代替が見つからないまま、いくつかのアプリケーションとWebサービスを併用するに至りました。

特にWebページを保存できる「クリッパー機能」をよく使っていましたので、現在はスナップショットでローカルに保存もしくはInternet Archiveに残すようにしています。

今もなお忘れられないのが、頭の中からいったん外に出して思考を整理するべく「第二の脳」として働くというあの感覚で、素晴らしい製品であることに変わりありません。

第二の脳は、京大式カードの本質と通ずる部分だといっていい。

好奇心の発露となる発見の手帳

梅棹は、レオナルド・ダ・ヴィンチが些細なことでもノートに記録していたという逸話にならい、「発見の手帳」を携帯して「これはおもしろいとおもった現象を記述するのである。あるいは、自分の着想を記録するのである。」を実践している。

「発見の手帳に収め、カードに転載することで活用していく」点をヒントに、メモという形で情報やアイデアを集積させるようになりました。

パターン・ランゲージ

ウィーン出身の都市計画家クリストファー・アレグザンダーが提唱した、古くからある街の共通点(パターン)に名称(ランゲージ)をつけることで広く認識されるようになるという理論。

この応用としてソフトウェアの世界に持ち込まれて生まれたのが、Wikipediaなどの土台となっているWikiシステムです。

(経験則としては伝わっているが)言語化されていない知恵「暗黙知」を言葉で説明できる「形式知」に変換するフレームワーク(枠組み)といってもいい。

Memosに収録する際には必ずタグ付けを行うのですが、このタグはパターン・ランゲージを意識したもので、例えば「心地よい住まい」というタグであれば、そこには「現代では、どんな要素があれば心地よいと感じるのか」という事例が集積していく。

ひとつひとつは雑多な情報でも、無数に集まれば新たな価値を創造するためのデータ群となることから、「発見の手帳=Memos」はその源泉といえる。

Lists: 引用・参考文献リストは原則非公開

目的は文献ほかのリスト(データベース)化で、タイトルにキーワードが入っていない場合には、検索に引っかかるように作成時にタグ付けや摘要で情報を補っておく。

SNSは何らかの関係性でつながるものですから、同好・同業に向けての共有を目的に投稿することがありますが、それ以外は原則非公開としています。

手の内を見せないといった意図はなく、現状では孫引きになるといった場合には後追いで調査が必要で、とりあえず検索から画像を引っぱってくるならば著作権上の問題を含みますので、公開せずとするに越したことはない。

文書に引用もしくは参考文献とした場合

確実に残しておく必要がありますから、専用のファイル上で管理しています。

また、数が多い場合には管理が煩雑となって破綻してしまっては時間を失いますので「文献管理ソフト」を利用します。

これも有償・無償で様々なタイプがあり、論文だと定番がいくつかあるにしても、膨大になれば管理画面の操作性が重要になってくるので悩ましい。

通常はそれほどの数にはならないため、ブラウザの機能拡張で済ませていますが、視認性が悪いと手間取る、動作が重ければとストレスになるだろうことは容易に想像がつく。

参考文献の大半が書籍といった場合にはまた違う労苦があり、今のところこれといった解決策を持ち合わせていません。

Web上の記事はブックマークに収録

その日にチェックした総数が数十になることも珍しくなく、それが毎日となればすべてを管理することはできません。

Web上にある各種の素材については、出所がはっきりしたpdfファイルなら参照する可能性があるためリストに追加することはあっても、残しておこうかという程度ならブラウザのブックマークもしくはWebサービスを利用してタグ付けだけで収録しておきます。

国内ではテレビや新聞社の記事でさえ消去されて参照できなくなることが当たり前の状況では、長期的には情報として残す意味を見出せない。

消えるのを前提とすればWebクリップでもしておかないと記録として留め置くのは難しく、ブログなどに覚書として部分的に引用されるのも仕方がないことだと思える。

Cards: 豆論文とは何か?

梅棹は「人に見せるために書く」と述べている。

その背景には、共同での研究ならびに執筆があったからだろうと推察され、自分のためだけに京大式カードを書いていたわけではない。

実物のカードを展覧会で見たところ、すべてがそうだということではなく、見せる前提であればそのように、原稿の下書きのためなら多少の乱雑さは許容するといった印象を持つ。

それでも、本文は短かったとしてもタイトルはしっかり入っており、体裁を整えておくことに関しては抜け目がないといった姿勢が見て取れる。

この点については実感するところがあり、以下に記す。

Cardsの中身

(豆論文であることには違いないが)おおまかに分けて2種類あり、ひとつが「概念的な記述」で、もうひとつが「具現的な記述」である。

概念的な記述とは、思考の足跡といった内容で、抽象化を含む。

また、具現的な記述とは、概念的な記述をもとにした「そのまま原稿にできる状態にある文章」のことを指す。

いわば「断章」のような趣きの文章なのだが、深く考えれば考えるほどどちらもそうなっていく。

紙の京大式カードで考えを練り上げ、文章に仕立てた(デジタル化)のちCardsに収納し、具現的な記述ならいずれ原稿の一部となるが、概念的な記述は公開することなく留め置くことになる。

豆論文の仕上がり具合

上記の「具現的な記述」であれば、最終的な原稿に順番に貼り付けていけば脱稿できる状態が理想である。

内容について一定の質を担保することは大前提であり、そのうえで原稿に組み込んだ際にいちいち手直しが必要であれば、また時間を取られることになってしまう。

これを回避できるだけの状態に仕上げておくことが大事で、単にひとまとまりという意味ではなく、どこにどのように組み込まれていくのかと想像しつつ執筆する。

したがって、構成が定まっていない時点で書き始めた場合、一応の仕上がりには達していても未完としておき、見直しが終わったところで完了となる。

豆論文の中の豆論文

単純に引用するのではない、そのまま引き写すのもはなく、何をどう考えたのかを自分の言葉で書く

京大式カードとは自分の手札なのだから、血肉化というほかなく当然のことである。

これまでの実践の中で、(全体からすればごく少数ではあるが)豆論文の中の豆論文が生まれ、これらを使えば文章はいくらでも出てくるようになった。

上記でいうところの「概念的な記述」がこれに当たる。

カード間の連関を思考する

obsidianは、ローカル上で動作するアプリケーションでありながら、「ページ間をリンク」させる機能が備わっている。

これはまさに「カード間の連関」をデジタル上で具現化したものといえるだろう。また、それらを相関図として表示させることもできる。

roam research(有償)の特長として挙げられる機能が無償で手に入るとなれば、特に個人用途の場合には助かるだろう。

一方で、ページが増えてくると複雑に絡み合い、全体像をつかむのが難しいこともまた確かで、ユーザーの中には限界を感じて使うのをやめてしまうこともあるようだ。

しかし、カード間の連関は京大式カードの要だから、代替の手段を必ず見つけなくてはならない。

Notion

カード間の連関については、Notionでも同様のことが可能で、あらゆることがひとつのアプリケーション内で実現できるといった多機能性ゆえ複雑で慣れるまで時間がかかり、慣れたはずの今でも迷ってしまうことがある。

そのうえ、ユーザーが増えることでネットワーク効果が生まれ、共有が簡単であることなどから大人数が参加するプロジェクトでは必須となっている。

ここは素直に従って、プロジェクトでは使用し、個人の活動では限定的といった使い分けに落ち着いた。

Scrapbox

ベースとなっている機能がユニークで、カードもしくはメモ版のWikiといった感覚で使うことができる。

サービスとしてはそのように使う前提ではないのでWikipediaと同等のWebサイトとして構築することも可能で長文で書かれたページも存在するが、カードやメモ、付箋のようなイメージで使っているユーザーが多い印象である。

また、それがうまく回っていて、思わぬ情報に行き当たり、うなったことは一度や二度のことではない。

Wikiだと書いたのは、各ユーザーが作ったページ(作成者としてユーザー名が表示されるので特定できる)であっても他ユーザーが編集できるので、編集は個人ベース(共同作業を前提としていない)でもサービスとしては協業のように機能する設計になっている。

同じキーワードで書かれたページがあれば、下段の別枠に表示されるなど連関を自動的に抽出してくれるため、ページが単独で存在することで気づかれず死蔵されてしまうことがないようになっていることも特筆すべき点である。

※ページ作成は、基本的に個人ベースです。

パターン・ランゲージ

メモの項で触れた「パターン・ランゲージ」は、カード間の連関でも重要な役割を果たす。

一見すると関係性がないように思えるカード間で意外な結びつきを見い出し、はたと考え込むといったことがこれまで何度もあった。

その場では気づかなくとも、そこに共通点があるとのちにわかるといったことからも、奥深いところに眠っているといえばいいだろうか、表面的に見ているだけでは発見できない。

この点については梅棹も言及している。

「一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけぬ関連が存在することに気がつくものである。そのときには、すぐにその発見もカード化しよう。そのうちにまた、おなじ材料からでも、くみかえによって、さらにあたらしい発見がもたらされる。」(知的生産の技術, p.58)

パターン・ランゲージがそうであるように、注意深く観察してやっと見えてくるカード間の連関がある。

意外な方法で連関を見つけ出す

ルーマンの「カード思考術」は非常に難解であると先に述べました。

解き明かすのを半ば諦めていたようなところがあったのですが、あるとき意外な方法がひらめきます。

ひょっとしたらブログでやればできるんじゃないか。なぜそんなアイデアが浮かんできたのか今もってわかりません。

やることは単純で、ルーマンの教えのひとつ「カードを孤立させないで、必ずリンクでつなぐ」ことだけを守って作業を進めていきます。

感覚的に違うのは、ブログの投稿といえば記事単位なんですが、それを何枚ものカードに分割することになるので、ブログなら1記事(ページ)で済むものを、カードの数だけ投稿の操作を繰り返すことになる。

また、記事であれば展開を設けてストーリー仕立てにするところを、1枚目は冒頭として概要を書いて次へとリンクし、2枚目には1枚目を受けた内容を書いたうえで話が分岐するのなら、その数だけリンクを付けます。

その途中でも分岐させるとなると、全体を見渡せばいくつもに枝分かれし、どんどん広がってしまっていても、それで構いません。

ブログの記事なら結論を導くために途中で広がっても最後には収束させるので形としては「菱形」になり、カードをリンクでつなぐ場合には末広がりの「三角形」になる。

ブログに思考の足跡を記録する

ブログの一般的な使い方としては「作品や考察を公開する場」であり、それを上記のようにカードを連ねる形にすれば、当然のことながら閲覧者は戸惑います。

その一方で、同一のプロジェクトに参加するメンバーや同じ趣味・嗜好の人が読むと、おもしろいように考えが伝わり、意見が返ってくる。

場合によっては反論されることがあったとしても、それは議論が進んで成熟していく過程であり、歓迎すべきことです。

同じようなことは「マインドマップ」や「フローチャート」でも可能ではあるものの、ブログを使ったほうがはるかに表現の幅が広く自由で、前者が平面的なのに対して、立体的な建て付けになる。

ルーマンは「途中でカードを挿入することで自由自在に拡張」していますが、同様のことは(リンクの付け替えは必要でも)ブログでもできます。

また、自身にとっても有益で、前に戻って考え直したり、途中で止めても再開するのが容易であり、まとめる必要がないので発想がいくらでも膨らむ。

こうやってあらかた出尽くした頃には大筋が見えているので、構成がほぼできあがった状態であり、あとは書く作業を残すのみとなる。

よって、京大式カードの本質は、カード間の予期せぬ化学反応を誘因し、無限に文章を湧出させることである。

それを梅棹は、「それは一種の知的創造作業なのである。カードは、蓄積の装置というよりはむしろ、創造の装置なのだ。」(知的生産の技術, p.58)と書いている。

ブログに思考の足跡を記録することは、その様子を敷き写す(そして、事後にたどることができるようにする)ことであり、それは草花が地中に根っこを伸ばす様子をガラス越しに観察する実験映像のようなものといえよう。

Papers: 進行中のプロジェクト

最終原稿のためのファイルを収納してあります。

1プロジェクトに1ファイルとし、「タイトルや概要、出稿先、文字(ページ)数、締切などの基本情報」と「本編の構成図」といった内容です。

新たに始めることとなったら、基本情報だけで起票します。そして、紙のカードで構成を練り、ある程度の見通しが立つと構成図として書き起こし、それに従って執筆する。

締切が迫っているものもあれば、1年以上も先という場合など、常時20ファイルくらいが同時に進行しています。

アウトライナー

アウトラインとは、あらすじや概要といった話の流れや大まかな下書きのような全体の構成を指す。

それをアプリケーションとしたのがアウトライナーで、Wordにはアウトライン機能が付属しています。

用意したアウトラインに沿って執筆していくので、構造(階層)を理解もしくは目視で確認しつつ進めていくため、論文や小説を書く際には定番のツールであり、かなりの種類がある。

実践においては、論文と小説では要求されるものが違いますから、おのずと別のものが選ばれ、ノートや手帳にも個人の好みがあるようにアウトライナーも人それぞれ。

周りに尋ねてみても答えがばらばらで、同じ人でも目的によって使い分けているなど、どれがいいのか実際に使ってみて合うものを見つけていくしかない。

これまで有償・無償とも数多く試してきて、現状の作業工程ではひとつだけで事足りるとはならず今はあまり使っていませんが、文書の作成において有用であることは間違いありません。

obsidian

プログラマであればMarkdown記法にも慣れているような気がするので、obsidianは候補のひとつになるだろう。

アウトライナーとして最適だとまでは言い切れないが、助けとなるような各種のプラグインがユーザーによって開発・公開されている点でもオープンソースソフトウェアの慣例にならっている。

その思想や使い方にひととおり慣れるまでには時間がかかるものの、要領がわかれば便利なものだと感じられるのではないか。

多岐にわたりいろんなことが可能であり、人によっても良いと勧める点が違うだろうから、深く触れるにはまったくもって紙幅が足りない。

インターネット上には諸氏による解説文がたくさん存在するので、興味を持ったのなら検索してもらいたい。

それらを読んでも最初のうちは難解で何がいいのか不明だと思うが、その機能性に魅せられた人が多くいて、実践で使った上での諸所の事例があることがわかることだろうと思う。

読み通し、前後を調整する

例えば、型が決まっているブログの記事ならテキストエディタで十分であり、もし小説を書くことになったら(構成を京大式カードで練ったとしても)アウトライナーを使うだろう。

慣れていて要領よく進めることができるのなら不要でも、構成を曖昧にして執筆すれば、どこかの時点で破綻して手が止まってしまっては一大事である。

アウトライナーは、ファイル数が多くとも読み通しが容易で、前後の調整もやりやすい。

現状では、京大式カードによって構成を固めたうえでの執筆なので使わずとも進めることができているのであって、構成もパソコン・タブレットで行いたい場合には不可欠だろう。

「部・章・節・項」といった階層構造で書くとなったらなおさらである。

Notes: 豆論文から生まれる

Papersに起票したらNotes内に同名のフォルダを用意し、原稿を書いて放り込んでいくと、文字数10万超の場合には(写真や図表などの素材まで含めて)ファイル数が150〜200ほどに達する。

フォルダ内には「最終原稿のための分割ファイル」が入っているようなものなので、これらをひとつにつなぎ合わせて、全体を調整したうえで脱稿となります。

この分割ファイルを常日頃からこつこつ書き進めていくのですが、最初のうちは文章らしきものはできても、まとまっているようには思えない代物だった。

コーネル式ノート

分割ファイルとは、学術文書における「部・章・節・項・目」の項もしくは目、Webの記事なら「見出しと文章」といった最小ブロックに当たる。

この最小ブロックについて、文章の書き方というような手引書では「言いたいことをひとつだけに絞る」と書かれてあり、頭ではわかっていても納得できるほどには仕上がらなかった。

コーネル式ノートとは、アメリカの名門コーネル大学の教授が学生向けに考案した、授業を聞きながらノートを取るための技法。

ノート1ページを4分割して記入するというもので、これについての解説を読んでいるときにひらめき、分割ファイルを手際よく書き進める方法を見つけた。

このノート術には、記憶を引き出す手がかりとする「キーワード」を書き出す部分があり、これをもとに授業後や復習時に内容をまとめて文章化します。

それらキーワードを割り振って各段落とすれば、最小ブロックの文章を書くのはわりと簡単ではないか。

こざね法

こざねとは、「小札」または「札」と書き、日本の戦乱期に使われた武具「甲冑」を構成する小さな短冊状の板のこと。

梅棹はこれにならって、紙の小片(B8判)にキーワードのような言葉の断片を書いて組み替えていくことで流れを生み出し、決まったらホチキスで留めたうえで文章にしていった。

まず紙きれを用意する。
その紙きれに、いまの主題に関係のあることがらを、単語、句、またはみじかい文章で、一枚に一項目ずつ、かいてゆくのである。おもいつくままに、順序かまわず、どんどんかいてゆく。…

つぎは、この紙切れを1枚ずつ見ながら、それとつながりのある紙きれがほかにないか、さがす。あれば、それをいっしょにならべる。…

何枚かまとまったら、論理的にすじがとおるとおもわれる順序に、その一群の紙きれをならべてみる。そして、その端をかさねて、それをホッチキスでとめる。これで、一つの思想が定着したのである。こうしてできあがった紙きれのつらなりを、わたしは「こざね」とよんでいる。…

こうして、論理的にまとまりのある一群のこざねの列ができると、それをクリップでとめて、それに見出しの紙きれをつける。あとは、こういうふうにしてできたこざねの列を、何本もならべて、見出しをみながら、文章全体としての構成をかんがえるのである。…

ここまでくれば、もう、かくべき内容がかたまっただけでなく、かくべき文章の構成も、ほぼできあがっているのである。『知的生産の技術』pp.202-205

『知的生産の技術』の目次を見れば、こざね法がなんたるかわかるともいえよう。

こざねのことは先に知っていたものの、コーネル式ノートのキーワードと合致したとき、これだと思った。

パラグラフ・ライティング

日本語では意味の区切りではなく長くなったら適当なところで段落を改めることが通例ですが、欧米では(論文やニュース記事など論理的な文章では当然のこととして)パラグラフ・ライティングが原則である。

これは最小ブロックの各段落の先頭を要約(たとえ難解な内容であってもおおよその内容を把握できる)とし、読み手の理解を助けるように書く手法を指す。

物語は別として、日本語で書かれた文章でもそれが前提とわかれば読みやすく、また混乱することもない。

このブロックの主題は「Notes」だが、パラグラフ・ライティングにおいて先頭の1行を「トピック・センテンス」と呼び、ここでは小見出しが同様の役割を果たしている。

また、理系なら「レゲットの樹」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。レゲットの樹が論法で、その技法がパラグラフ・ライティングである。

最小ブロックの良し悪しで決まる

原稿を執筆する際には、分割ファイルを最小ブロックとして進めていきます。

それらを最終的に連結するのですが、全体の質を高めるためには、この最小ブロックの良し悪しで決まってくることが経験的にわかってきた。

前後のつながりを意識するよりも、(違和感がなければ問題ないと割り切って)それぞれで完結させるべく注力したほうが全体として良いものになる。

具体的には、いくつかの豆論文をつないで最小ブロックを構成し、その質は個々の豆論文に左右されると気づいたことで、Cardsにかける時間がますます増えることになっていく。

今では豆論文が先にできあがって、それをどこに組み込もうかと考えるようにもなり、梅棹がいう「豆論文を執筆するのだといったが、その原則はカードについてもまったく同じである。」を愚直に実践してきたことが、ここに生きている。

このあたりは、ひとつの小説を集中して執筆するようなケースならその懸念はさほどなく、複数のテーマで並行して進めるときには念頭に置いておかないと、脱稿に向かう時点で相当の手直しが発生し、ひいては全体的に直さなければならないといった状況に陥ることにもなろう。

ゆえに手落ちがあれば生産性に大きく影響する。

また、 文書は小説とは性質が違うことから、「説明は、常に他者に向けて行われる。」にも留意しておきたい。

そのほか:1日あたり5,000文字

作家のアーネスト・ヘミングウェイは、自らを甘えさせないために1日の文字数を正確に記録しているとインタビューで答えている。

フルリモートワークとなって以降、文書の作成も業務の一環にはなったとはいえ作業の報告の意味合いが強く、決して主ではない。

家族との日常生活を送りながら時間の許す限りといった制約下で、計測しているわけではないが下限で1日5,000文字あたりになる。

これはNotesに収納するためのファイル(原稿)の数字であって、脱稿時の文字数を日数で割ったものではありません。

なお、プライベートな時間に書く個人ブログの原稿も含んでいるが、(最終的に原稿という形にはならない)紙のカードやデジタル上のCards,Lists,Memosは除外している。

作業時間としては、紙のカードで構成を練っておいたうえで原稿を書く(キーボードで打つ)のが昼夜に各1時間ずつで、音声入力を使う場合もあります。

元々は文字数を気にしていなかった

あるときに1日あたりどれくらい書いているのだろうかと思い、数えてみることにしたら、おおよそ4,000前後であることがわかった。

それならと5,000を基準にやってみたところ無理という感じでもなく、毎日ならどうかと思えば何とかなったことから現在まで続いている。

本当に毎日なので月に15万程度ということになり、現状の文書の作成では十分なほどである。

休日にまとまった時間が取れるとなれば、(前日に構成を考えておくことで)翌朝から書き始めて午前中には1万に達するが、午後は書きたくなくなるほどに疲れてしまう。

そうしたことから毎日5,000文字のペースを守ると決め、以降の数年間は1日たりとも欠かしていない。

様々なツールを目的・用途別に使い分ける

梅棹が実践していた時代は、近い将来にデジタルの波が押し寄せることは予見できても、それが一体どのようなもので、進化のスピードまで見通すことは容易ではなかったと思われる。

そして今、様々なツールが無償で、有償でも安価で手に入り、試して駄目なら諦めて次へということも可能になっているので、京大式カード様式のツールがあるわけではないが、それに沿った形で代用できるツールなら見つかるはずです。

実際にたくさん使ってみて最終的に残ったのは数少ないものの、シンプルな機能に絞られたものばかり。

何でもできるは何もできないのと同じと言われることがあるように、必要なタイミングで追加して組み合わせて使うというのが最適解のようです。

毎日これらを使って5,000文字程度の文章を書き、業務では報告書などに、また個人ブログの記事として活用しています。

インプットとアウトプットの間

梅棹は著書『情報生産の技術』の中でこう述べている。

文章をかくという作業は、じっさいには、ふたつの段階からなりたっている。第一は、かんがえをまとめるという段階である。第二は、それをじっさいに文章にかきあらわす、という段階である。一般に、文章のかきかたというと、第二の段階の技術論をかんがえやすいが、じつは、第一の「かんがえをまとめる」ということが、ひじょうにたいせつなのである。p.200

この「第一」に当たるのが、インプットとアウトプットの間であり、これはまさしく人の情報処理能力における「プロセシング=脳内で行なっている」ことを(頭の中ではなく)紙に書き出し、目で見て手で動かしてと、梅棹は京大式カードやこざねを使ってやっていた。

現代ではデジタル様式の多種多様なツールやWebサービスが提供されているが、考えるという行為においてはアナログ様式のほうが馴染みがあり、優れてもいるのではないか。

ならばツール類は補助的な位置付けで使い、手を動かして感覚的な遊びに没頭することが知的生産といえるのかもしれない。

おわりに:紙で思考を体系化させることでアウトプットが加速する

これまでの実践で以下のように結実した。

  • インプット:Memos, Lists
  • プロセシング:Cards
  • アウトプット:Papers, Notes

※Memosのみ紙、それ以外はデジタル。

考えをまとめ、文書化するために構成を練るといった段階までは紙を使った手法が適していて、それらをデジタル化することで素材となり、論文その他のアウトプットが完成する。

前工程を紙とした場合、組み替えが自由かつ素早くできて便利である一方で、提出物がデジタルであるならば紙のままで留めおくと、最終的に文字起こしの作業が発生してしまう。

業務や日常生活を送りながらとなれば苦行でしかなく、そんな時間があるなら論文の1本でも読みたいと思うばかりでしょう。

したがって、原稿の下書き、ただしこの場合の下書きとは十分に仕上がった豆論文であれば、あとは前後のつながりを調整するだけでよく、これを自身ではNotesと呼び、常日頃から書き溜めておきます。

その中には使わないものも出てくるが、そんなことを気にするよりも書いたほうがいいというのが実践していく中でわかってきました。

また、それらが没原稿として死蔵されることになるかといえば一概にそうとも言えず、その多くが後々に生きてくる。

京大式カードを使う姿勢としては躊躇なく増やすが好手であり、自らの手法を公開してきた識者においても同様のことが記されており、また談話としても伝わってきているので、やはりそうなのかと首肯するところです。

あとがき

今となっては、文章を書くという行為は思考を巡らせた結果の副産物であって、単純な作業といっていいほどのものになりました。

この文書は、同僚からのいぶかしげな問いかけをきっかけに、次の機会の返答として書いてみようと手を動かし始めたもので、そのつもりが元からあったわけではありません。

何かを思いつけばMemoし、そのいくつかが昇華するようにCardとなり、Cardが溜まってきたところでPaperを作り、またCardを基にNoteを書いていく。

その結果としての現物(アウトプット、すなわち文書)が副次的に生み出されるといった具合です。

特段の前置きをせずに「思考を巡らせることがすべて」だと言えば、はぐらかしたと同僚は感じるでしょうし、「構成8割、文章2割」と言ったら、テクニックやノウハウなど核心を隠して明かすつもりはなく、ヒントのようなものだけ投げてよこしたと憤慨するかもしれません。

本当のことを話しているのにもかかわらず信じてもらえるかは疑わしく、この文書を読んでもなお、心象は変わらないことさえ考えられます。

実際に試し、何度もつまずきながら会得してやっと、カード思考術は未知なるアイデアを生み出すのだと理解することになるのでしょう。

  • 2024-03-06 初版